情報多寡の時代、ネットを開けば自分の欲しい情報はいくらでも手に入る。
…でも、人生はなに一つ変わらない…!
そんな悩みを持った人への記事です。
僕自身もノウハウコレクター的な面があり、行動より先に勉強に走ってしまいます。でも勉強すればするほど、知識に縛られて逆に動けなくなることってあるんですよね。
知識は増える一方で、自分の人生が変わらないという苦しみ。その苦しみから脱出できるような知識をシェアします。
西洋哲学と東洋哲学の違い
西洋哲学と東洋哲学の違いを知っておくとかなり人生の役に立つので、まずはこの違いから説明します。
結論をいうと、西洋哲学とは『学』、東洋哲学とは『教』です。
なんのこっちゃって感じですが、これがめちゃくちゃ大切なので簡単に解説しますね。
西洋哲学は『学問』
西洋哲学は論理的な観点から、本質的なものを理論的思考によって解明しようとしています。
そのため、西洋哲学の内容は言葉で伝達できるもの。つまり、論文みたいに誰かに伝えることが可能なものなのです。
説得力があり、多くの人を説得したり、説明するときに必要なものです。
たとえば、数学の公式というのは誰が使っても同じになりますよね。
有名な西洋哲学でいえばデカルトの「我思う、故に我あり」という言葉があります。
「物事をどんなに疑っても、最終的には”疑っている自分”という存在が残る。だから、すべてのことがウソだとしても、『ウソなんじゃないか?』と疑ってる自分は疑えないよね。」ということです。
こういう風に、言葉で相手に「なるほど〜」と伝わることが西洋哲学の基本です。
東洋哲学とは『教え』
一方で東洋哲学は、科学的根拠とは理屈とかはそれほど重要ではありません。東洋哲学にとって大切なのは、『体験』とか『体感』といった言葉では伝えられないものだからです。
東洋哲学では、頭で考えてわかることではなく『実感』を大切にします。
そのため、その人の人生がいい方向に転換するなら、それでOK。
西洋哲学の偉人たちが「ああで、こうで、こうだから、そうだよね」と論理的に説明するのに対し、孔子や釈迦などの東洋哲学の偉人たちは「〜ずんば、〜すべし」と抽象的で例え話が多い。
つまり、いっていることの内容が論理的かどうかはそれほど重要じゃなくて、あくまでもその話から“感じ取れるもの”が大切なわけです。
それは、東洋哲学では、聞いている人が「ああ!なるほど!そうだよね!!」と体感レベルで納得することを大切にしているからなんです。
たとえば、「人に優しくする方法」を知りたい人があらわれたとする。
「脳内の分泌物質が〜、●●%の可能性で〜」と理屈で説明するのは西洋的な解説になる。説得力がある一方で「頭ではわかるだけどね〜」となりやすい。
一方で、東洋的な説明では、「昔、山に住んでいた〇〇という人が〜」と、例え話や物語を聞かせる。その物語の登場キャラクターがサルでもカニでもヒツジでもいい。
その話が作り話でもいい。聞いた人が、自分の体験に当てはめて「ああ!なるほど!!」と実感でき、価値観が変わることを重視する。
つまり東洋哲学は「論より実をとる」ということです。
本当の意味で「知る」とはどういうこと?
簡単にいうと、西洋哲学で大切なのは「理論」、東洋哲学で大切なのは「体験」。
たとえば、一度もラーメンを食べたことがない人が、ラーメンの味やおいしさについて科学的に証明された論文を10年かけて1,000冊読んだとしましょう。
その人は、まさに『ラーメン博士』の名にふさわしいほど、ラーメンについて”知っている”。
しかし、いまだかつてラーメンを食べたことがない…。
一方で、ラーメンの旨味成分がどうなっているかはよく知らないが、ラーメンを食べたことがある人は「ああ〜、ラーメンね。おいしいよね〜。」とラーメンのおいしさを”知っている”。
どちらも”知っている”なのに、そこには埋められない差があるんですね。
情報多寡の時代では、論より実
インターネットの普及で、情報は多くの人に均等に行き渡るようになってきています。
もちろん情報格差というものがありますが、アクセスしようと思えば、知識を得られるのは昔と比べて格段に簡単になっている。
しかし、『知識』を得たからといって『体験』が得られるわけではない。
つまり、先ほどの例でいえば、ラーメンについていくら詳しくなっても、ラーメンを食べなければ”本当のこと”はわからないのです。
他人が美味しいといっているラーメンが、自分にとっては美味しくないことだってある。
もちろん知識が不要というわけではなく、本当の意味で人生を変えていくとは体感レベルで認識を変えていくことなんですね。
恐怖は想像の中にある
僕らは他人の情報によって左右されることがある。
たとえば、子供の頃「早く寝ないとオバケがくるよ!」と親に脅された人は多いと思います。
もちろんこれは子供に早く寝てもらうための嘘(ウソ)です。
最初は怯えていた子供も、夜更かししても別にオバケがこないことを経験的に知ってくる。
そしてオバケが来るということが、自分を早く寝かしつけるための親の方便だったことに気づく。
そうすると「な〜んだ、ウソじゃん!」とその恐怖心から解放される。
実は大人でもこういった恐怖はもっているんですね。
- 受験に落ちたら人生終わり
- 会社にリストラされたらダメ人間
- 結婚できない人は負け組み
これらは全部ウソなんです。
誰かがあなたにいうことを聞かせたいためのウソ。
人生を変えたいなら、論より実を取る
ジェットコースターに乗ったことがなくて「ジェットコースターに乗るのが恐い」と思っている人がいたとします。
その人にジェットコースターの設計図を見せて、強度試験の結果を見せ「ジェットコースターは乗っても安全である」といくら論理的に説明してもなかなか伝わりませんよね。
「一回乗ったら絶対もう一回乗りたくなるよ!」と説得して、楽しさや安全性を言葉で伝えて「なるほどね、そんなに楽しんだ!わかったよ。」と相手がいったとします。
しかし、「じゃあ乗ってみよっか!」とすすめると「いや!また今度でいい!今日は乗らない!」と拒否してしまう。
友達に引きずられて恐る恐る乗ってみた。
…「た、楽しい!!!!!!!」
まさにこの瞬間、ジェットコースターが安全だったこと”知る”わけですね。
今まで「恐い」と決め付けていたのものが、こんなにも楽しいものだったなんて…!
私は今までなんて勘違いをしていたんだ!!「ねえ!もう一回乗ろう!!」
そういう変化が脳内で起こる。
つまり、人生を変えるとは、自分の『認識』を変えていくことなんですね。
まとめ
なんとなく伝わったでしょうか?
なにかやりたいことがあって、それでも恐怖心が勝ってしまう場合、それは自分の想像が作りだしたものだと客観的に観察してみてください。
僕らは教育課程で「まず、勉強」の癖がついてしまっていますが、行動して体験・実感を得ることも大切です。
では今日はこれで。
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