【自分勝手に生きるコツ】優しすぎて人生を損しない方法

今回は自分勝手に生きるコツについてです。

メルマガ会員さんから「仕事を辞めたいけど、周りに迷惑がかかるので辞められない」という相談をいただきました。

僕らは教育過程で、「周りに合わせなさい」とか「他人の気持ちを考えなさい」と教えられてきましたよね。

たしかに協調性は社会や組織を形成するうえで大切なんですが、ときに社会をとんでもない方向へ導いてしまいます。

昔でいえばアウシュビッツのような大量虐殺や、第二次世界大戦末期の日本がいい例です。ある権力者層がいて、その権力者層の指令に従う”大勢の善良な市民”が大虐殺や戦争の主体となる。

現代でいえば、ブラック企業に勤めるあるひとりの社員が「いま私がやめたら同僚が困るから…」と考えていたとする。実は、そう考えているのはひとりではなく、”大勢の善良な市民”がブラック企業を支えているんですね。

僕もブラック企業と呼ばれている、とある居酒屋チェーン店でアルバイトをしていた経験があるのでわかるのですが、幹部は体育会系の人たちでした。でも、社員さんやそこで働いているのは「優しい人」でした。

しかし、当人だってわかっている。わかっているんだけど、その心の矛盾を解消できない。

「私だって自分勝手に生きたい…。でも他人に迷惑をかけるのは自分を許せない気がする…。」これがボトルネックとなって行動にうつすことができない。

つまり、「周りに合わせなさい」と教育が『呪い』となって自分の好きなことができない状態ということですよね。

じゃあその呪いを解くためにはどうすればいいのか?どう考えればいいのか?

今回の記事ではそこに触れようと思います。

利己主義は『罪悪感』に悩まされる

実は僕も「自分の好きなように生きる」と決意して会社をやめた人間です。

もともと建築現場の監督として働いたんですが、現場監督の仕事は結構ハードでした。新入社員でたいした責任もなかったんですが、常に「辞めたい…!」と思っていました。

「やめたきゃ辞めればいいじゃん」というのは正論なんですが、それができないのが人間というものですよね。

人に迷惑をかけても何も感じない人ならこんなことで悩むことはないと思いますが、社会というコミュニティで生きている限り、自分勝手に生きていると罪悪感というのはつきものです。

利他主義は『怨み』に囚われる

じゃあ他人の利益ために尽くせばいいのか?自分の人生を犠牲にして、精神的に追い詰められても他社に貢献するべきなのか?

やっぱり違いますよね。もし利他主義的に生きて、報われなかった場合、それは『怨み』になります。

  • こんなに頑張ってるのに…
  • 自分ばかり不幸な目にあう…
  • 楽しく生きている奴らが許せない…

社会のために、他人のためにと思って生きていたのに裏切られてしまった。他社を思う気持ちは反転すると『怨み』になってしまう。

恋愛でも「あんなに尽くしたのに、捨てられるなんて…。許せない…!!」ということがあるように、愛情は憎しみに変わるというやつですね。

あなたも世界の中のひとり

『利己主義』は他社という視点が欠けている。

『利他主義』という視点は自分という視点が欠けている。

自己犠牲で苦しむ人、優しすぎる人は『利他主義』精神が高い人です。

じゃあその呪いを解くために解くためにはどうすればいいのか?というと、自分も世界の中のひとりだと認識することです。

僕も元々そうだったのでわかるんですが、利他主義の人の視点って、自分を起点とする世界しか見えていないんですよね。図で紹介すると下記のような感じです。

そのため、「他人に迷惑をかけないように」とか「人に優しく」と思ってしまう。でも、その視点をちょっと自分から離して、神様のような、俯瞰視点に立ってみてください。見え方がちょっと変わると思います。

自分視点だと「自分ががんばらなきゃ、他人に迷惑かけてはダメ」かもしれませんが、神視点に立てば自分自身も『他人』です。

つまり、あなた自身も世界の中のひとりだということです。

もし自己犠牲精神で無理して生きてるなら「おいおい、そんなに自分を追い詰めなくていいんだよ」と言いたくなるはずです。

他人に優しくしようとすることは立派なことですが、あなた自身も世の中のひとりなんですよ。

あなたが苦しんでいる人をみて辛くなるのと同じように、自己犠牲で身体を壊したり、精神的に病んでる、あなたを見て辛くなる人もいるということです。

利己的他社主義になろう

『利己的』でも『利他的』でもない生き方があります。

それが『利己的他社主義』という生き方です。

『利己的他社主義』という言葉自体はネットで検索しても出てこないので、造語として捉えて欲しいんですが、どういう意味かというと「自分好きなこと、褒められること、興味があること、得意なことで、他人に貢献しよう」というイメージの言葉です。

たとえば、ひとりでいることが好きでコツコツ作業が好きな人は、そういう仕事を選べばいいし、接客が好きな人はそういう仕事を選べばいいんです。

ピッタリ、しっくりくる物がないとしても、それに近い物を探す。

僕らはついつい年収や社会的地位、安定で仕事を選んでしまいがちですが、続かないなら意味がないんですよね。

「お金はある、社会的地位はある、いい家に住んで、いい車に乗っている。でも生きていて楽しくない。死にたい。」そんな生き方が幸せであるはずがない。

RPGとして考えよう

たとえば、ロールプレイングゲームを想像してみたください。

戦士と魔法使いと弓使いのチームがいたとします。

戦士はパワーがあって最前線で敵を倒していくのが得意。

魔法使いは仲間を回復してサポートするのが得意。

弓使いは最後列から戦士を援護するのが得意。

それぞれの得意なポジションがあって、最大限の力を発揮させるには、適した場所におくべきなんですね。

しかし、日本の教育はそうはさせない。戦士でも魔法使いでも弓使いでも関係なく、「こうしなさい!こうあるべき!」とベルトコンベアーみたいに同じ場所に押し込めようとする。

もちろん、それでうまくいく人もいますが、ほとんどの場合そんなことでうまくいくわけがない。

流されて入った会社が合わないなんてザラにある。

イメージで例えるなら、戦士も魔法使いも弓使いも最前線に立たせて戦わせる感じ。

自分がプレイヤーとしてキャラクターを動かすなら、こんな馬鹿げた戦略とるわけないですよね。

「戦士はパワーが強いし、強い技を持っているから最前線!弓兵は遠距離攻撃が強いから後ろ、魔法使いは回復だから真ん中」というふうに、最適解を目指すはずです。

こうしたほうが絶対に効率よく世の中は楽しくなっていくはず。

自分はどこにいれば世界にとって有益か?

幸せに生きるとは、誰かより多くのお金を稼ぐことではないし、一切の無駄なく効率的に生きることではないし、ひとつのことを一生続けることではないですよ。

自分という器を使って、どのように人生を楽しくしていくか。自分という人生を楽しめるか、です。

この世をRPGとすれば、自分が何をすれば、どこに自分の力を最大限発揮できて、他者に貢献できるか?そのポジションを探していく。

こういうと、「もう自分には遅い…。もう歳だし…。」という人がいるんですが、それもどうなんでしょう。

幸福とは「不幸や面倒を避けること」ではなくて、乗り越えるのが楽しい不幸があることです。

もっと自分を客観的にみることができれば、世界への認識が変わるはずです。

では今日はこれで。

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